アルゼンチンのブエノスアイレスに来たらほとんどの人が観光に訪れると思われるボカ地区にあるカミニート。
カラフルに彩られた建物が立ち並ぶ、文字通り異色な空間は見るだけでも楽しいのですが、その歴史を知るとさらに感慨深く人々の郷愁を知ることができます。
多くの人がまずバスでこの河岸へと到着すると思います。
カラフルな石畳や向こうに見える2つ並んだ赤とグレーの橋が印象的です。
この町は19世紀半ばに多くはイタリアからやってきた移民がこの港にたどり着き、この地に住み始めたのが始まりです。
CONVENTILLOコンベンティーショと呼ばれるトタン板で作られた長屋には複数の移民家族が共同生活を送っていたそうです。
建物が色鮮やかに塗られているのは、港の船をペイントした際に余ったペンキで移民たちが塗ったから。
このカラフルな色彩には貧しくてペンキが買えず、少しづつ余ったさまざまな色のペンキで壁を塗るしかなかったという移民たちの悲しい経緯があります。
コンベンティーショ(長屋)は今はお土産屋さんが入っていて、ただのテナントのように見えますが、昔はこの小さな一部屋に一家族が住んでいたんだそう。
カミニートにある消防士の像。
狭い長屋に多くの家族が住んでいたこともあり、当時は火事が頻繁に起きていました。
川の氾濫も多く、そのため移民たちはボランティアの消防団を結成し、それらは南米初の民間消防団となりました。
多くの観光客で賑わい、カラフルに塗られた建物が並ぶ路地、カミニート。
この路地がカミニートと呼ばれるようになったのは、1950年にアルゼンチンの有名な画家、キンケラ・マルティンやその仲間たちが電車の廃線とともに廃れたこの地域を復活させたときにタンゴの名曲カミニートからこの名前が付けられました。
河岸にあるキンケラ・マルティンの像。
アルゼンチンの有名な画家、キンケラ・マルティンは産まれてすぐ修道院に捨てられ、6歳でボカ地区に住む移民夫婦に引き取られました。
養父は炭鉱を所有しており、キンケラも幼いころからその仕事を手伝い、その炭で絵を描いていたと言われています。
彼はその後、画家となり長年ヨーロッパやアメリカ合衆国を放浪した後、アルゼンチンに戻りそれからは主にアルゼンチンに根差して、画家としての活動に終始しました。
彼はこの地に学校や病院などを建て、購入したアトリエの1階には幼稚園を作りました。
この建物は現在、Museo Benito Quinquela Martínムセオベニートキンケラマルティン(キンケラ・マルティン美術館)となっています。
キンケラ・マルティンの銅像の前にあるキンケラ・マルティン美術館。
このカラフルな町並みからは想像できない悲しい移民たちの過去が、要所要所から伺うことができます。
タンゴの発祥もこの港町と言われており、初めは貧しい移民の労働者の男と娼婦の踊りでした。
故郷から遠く離れて暮らす移民たちの憂い、郷愁などがタンゴの旋律となり多くの人々を魅了していきました。
この辺りにあるレストランではタンゴショーを見ることができるお店がたくさんあります。
本格的なタンゴショーを見るとなると夜おそくなってしまうのですが、この辺りは観光地ですのでお昼ごはんを食べながら見ることができます。
昼間にタンゴは邪道かもしれませんが、子連れなど夜遅くなるのが大変ですし、わたしは3年ほど前に日本から来た友人とボカの観光ついでに子連れで一軒のお店に入って、タンゴショーを見ながらランチをしました。
年配の女性の生歌で何組かのタンゴを見ることができました。
その都度、チップをもらいにダンサーたちが各テーブルを回ってきますのでいくらかお金を払うシステムでした。
友人は女性ダンサーとタンゴのポーズで記念写真を撮ってもらったり、子供たちもだっこしてもらって写真を撮ってくれたりしてなかなか楽しかったです。
このボカ地区はアルゼンチンで最も人気のあるサッカークラブの1つであるボカジュニアーズの本拠地でもあります。
そのメインスタジアムであるボンボネーラはカミニートから数ブロックのところにあります。
このボンボネーラではスタジアム内を見学するツアーもあります。
ボンボネーラ見学ツアーの記事はこちら→アルゼンチンを代表するサッカークラブ、ボカジュニアーズの本拠地ラ・ボンボネーラに行ってきた
ボンボネーラの周辺はあまり治安が良くありません。
ガイドの友人も夕方以降には案内したくないと言っていましたので、本当に危ないのだと思います。
今回の散策もわたし一人では不安でしたのでツアーガイドをやっているアルゼンチン人の友人に案内をお願いしました。
くれぐれも気をつけて、人通りの少ない路地などは避けて散策してくださいね。